2005年5月28日土曜日

学会報告「拠点としてのカフェ」抜粋

 民間コミュニティセンターとしての「太陽2」が多中心的なネットワーク のひとつのターミナルとしてどこまで機能できるかはまだわからないが、複数の諸関係、複数の意味形成、複数の相互矛盾のうちのひとつとして存在することじ たいに、それなりの意味を見出すこともできる。それがなければ集まるはずのない人が集まる場として、カフェが役に立てるかもしれない。 
 気兼ねなく人に集まってもらうために、カフェという形式は適している。自宅を開放して民間コ ミュニティセンターといってみても、ふつう気軽には訪ねられない感じがするが、カフェならば貨幣を媒介とした交換を仲立ちとするので、「お邪魔します」と いう負い目がいらない。G. ジンメルの貨幣論のいうように、貨幣のもつ分離と結合の機能がちょうどよい具合に作用する(ジンメル『ジンメル・コレクション』筑摩書房、1999年、 270~271頁)。 
 しかし、カフェを運営してみたいと思う人はたくさんいても、実際にやってみるのは難しいよう に思えてしまう。最初の目標設定が高すぎると、始める前にあきらめてしまう。このへんからこのへんの間でやっていければよい、というおおよその枠を全体と してゆるめたところから始めればよい。 
 「太陽2」の場合、週末営業に限定してしまうとか、副業として経営上のもうけを余り気にしな いとか。あるいは、お茶やコーヒーの入れ方にしても、事前にスクールに通ってというわけでもなく、店を始めてから、人づてにカフェ経験者を紹介してもらっ てお茶の入れ方、コーヒーの入れ方を教えてもらった。あり合わせの資源を使って、できる範囲からやっていくという方法で、やってできないことはないものだ ということがわかった。 
 鶴見俊輔は、「下町シンポジウム」で次のように発言している。 
 
 高橋幸子さんという方が書いていたことで、私はとっても感心したの ですが、「草」のつくものは全部いいというんです。まず「草野球」でしょう。これは寺山修司の有名なテーゼですけれど、見知らぬ二人の少年が焼跡にやって きて、一人がボールをもっていたらキャッチボールがはじまる……(鶴見俊輔・小林和夫編『祭りとイベントのつくり方』晶文社、1988年、82頁)


 「草」のつくものは、公認されたものではないけれど、手近にあるあり合わせのものを使って楽 しむために行なわれる。あり合わせで間に合わせるから、どんな状況でも融通をきかせられる。 
 それでいうと、「太陽2」は「草カフェ」のようなものと思う。拡大再生産を目指す経営をきち んとしようとすると、クリアすべきハードルが高くなりすぎる。営業面での枠組をがっちりと固定すると、気楽に草カフェというわけにもいかなくなる。枠組を 厳しく設定することによる困難は、経営面だけでなく理念の面でもあらわれる。たとえばコミュニティとかアソシエーションという理念を過度にまじめに考えす ぎると、草カフェ的な気楽さが失われる。草カフェのよいのは、草野球のように、それをすること自体に楽しみがあるからで、共同性の構築はその副産物として 生まれてくる、というくらいの息抜き加減(枠組における“あそび”の部分)がちょうどよい。 
 何かをしようと考えたとき、それでもうけられるかどうかという部分でのハードルの高さ、技 術・能力の部分でのハードルの高さ、理念の部分でのハードルの高さ、いくつかのハードルがあるけれど、「草」というふうに考えると、低いハードルからでも ひとまず始めてみることができる。そして、始めてみてから考えればよいことというのは、案外に多いのではないか。そんなことはないのかもしれないが、いず れにしても「草」という言葉を付けて考えてみることで、「できること/できないこと」の編成が変化する。まじめに考えるとできそうにないことでも、「草」 だったらできる、というふうに。 
 不可能なことよりも可能なことがたくさんある方がよい。だから、可能性の幅をできるだけ拡げ ることができれば、それで十分に意味がある。鶴見俊輔のいい方でいうと、「部分が自由に活動できるようなかたち」である。そうした部分の自由度を許容する かたちが文化としてまきちらされていく。 
 

 文化は何かによって、まきちらされているところのものである。まき ちらされることなしに、各人のたましいの中に、自然にしっかりと育つものではない。 
 文化は、まきちらされるものであるが、文化が特別の所にあらかじめあって、次にそれが、 まきちらされるのではない。文化は、実は、それがまきちらされる手続きを含めて、はじめて文化となるのだ。文化はまきちらされることによって文化となるの だ。その文化が、また新しくまきちらされる事によって、文化の更生と存続が行なわれるのだ(鶴見俊輔『鶴見俊輔集6 限界芸術』筑摩書房、1991年、 82頁)


 何もまきちらされないような状況は、おそらく息苦しい。「草」でもいいからとにかくまきちら されていくことは、文化という言葉に内実を与える意味をもつのではないだろうか。雑多な場から雑多にまきちらされるような可能性は、ないよりもあった方が よい。 
 以上、こういうカフェもある、という報告。


渡邊太「拠点としてのカフェ―「天人」と「太陽」―」 
第56回関西社会学会大会(2005/05/28)