2009年2月10日火曜日

プレ・ニートピア(仮)


「働かざるもの、働くべからず」をスローガンとするプレ・ニートピア(仮)。カフェコモンズで開催。どうなるか、予測もつかず、予定もたてず、予感もはたらかず、あいかわらずの無計画ぶりで申し訳ないかぎりのままに開始し、ニート君の映像をみたり、「バートルビー」についてしゃべったり、remoscopeの壁系の作品(バートルビー・シリーズ)を見たり、それぞれ自己紹介や映像の感想を述べたり、ニート鍋を食べたりしながらという進行。中盤以降かなり混沌としてよかったのではないかと思いたい。ごめんなさい。


労働政策のなかでNEETという言葉が導入されて、カタカナでニートと表気されるようになって、玄田先生ががんばって若年者失業問題が政策対象となり若者自立塾など、さまざまな対策事業がおこなわれるようになったのが2004年から2005年にかけての頃。その後、本田さんたちが『ニートって言うな!』とニート概念を批判したりもして、その頃ぼくらもニートって言うなって気分満載で、『ユリイカ』のニート特集なんて読むものかとも思っていたのだけど(さいきんバックナンバーをとりよせて読んでみたら案外おもしろかった)、昨年来の金融恐慌を経た今日、ニート概念はそろそろ忘れられつつあるのかもしれないなかで、つぎの局面としてはむしろ「ニートって言って!」かもしれない。もちろんそのネガティヴな含みは十分に認識しつつも、意味をずらしてべつように。働いてもニート。仕事をしてもニート。咳をしてもニート。メルヴィルの「バートルビー」は独特の強烈な印象を読者に残す。自由で自律的な近代的主体ではとてもないのだけれども、それにもかかわらず奇妙にモダンな存在としてうつる。I would prefer not to.バートルビーの内面をしろうとしても、まったくわからず、つらいのか、平穏なのか、なにかを感じつづけているのか、なにも感じていないのか。ひたすら壁をみつめつづけるバートルビー。remoscopeで一分間のバートルビーを試みる。壁をみつづける一分は長い。「時は金なり」の資本の時間とは異質な時間。ぼんやりしていることが、なぜ罪悪感を生んでしまうのか。資本主義は宗教だ、ただし資本主義の礼拝は罪を清めるのではなくむしろ罪を意識に強く叩き込む、神さえも罪に巻き込むのが宗教としての資本主義だ、といったのはベンヤミンだ。来年2010年はニートの年です。

「プレ・ニートピア・メモ」